南京事件は、当時に起きた上海事件、盧溝橋事件、廊坊事件、公安門事件、通州事件に続いて起きました。
よって、それらの事件を時系列で整理して理解していくのが一番良いと思います。
1937年頃の中国は、共産主義化を目指す中国共産党と、民主主義を目指す蒋介石率いる国民党との間で内乱が続いていました。
さらには、ある意味で日本も含む欧米列強に各地をいいように支配されていました。
欧米列強は、内乱に対する平和維持活動ということで、日本も含めて軍隊の一部を現地に派遣していました。
そんな時に起きたのが盧溝橋事件です。
日本軍は中国国民党軍と一緒に北京の近くで駐屯していました。
日本軍が実弾を持たずに演習していたところ、その日本軍に発砲があり、両軍が戦闘状態になりました。
今日ではその発砲が、中国共産党の軍のものだったと言われています。
日本軍と国民党軍を戦わせれば、共産党軍は漁夫の利を得られるというものです。
ですが日本軍はそこで冷静に国民党軍と停戦協定を結びました。
目論見が外れた共産党は、北京近くの廊坊駅で、国民党軍の軍用電線が壊れたのを修理に行った日本軍に対して発砲し、14人の死傷者が出ました。= 廊坊事件
日本はすぐに増援部隊を送りましたが、北京の公安門を通過中に急に門が閉ざされて発砲を受け、新たに19人が死傷しました。= 公安門事件
2つの事件を起こした共産党の学生暴徒と国民党の部隊の一部約3千人が、今度は北京郊外の通州市に住んでいた385人の日本人を襲いました。
385人中の223人が、とてもむごたらしく惨殺されました。= 通州事件
それがどんなにむごたらしかったかは、ここで書くは耐え忍びませんので、インターネットで調べてみて下さい。
インターネットには、さまざまな本当の情報と、ウソの情報が出ています。
ではどうやって、その情報の真偽を知ることが出来るのでしょうか?
例えば南京事件ですが、これは反日勢力から、慰安婦問題などと同じように南京虐殺と流布されています。
ところが、例えばナチのユダヤ人虐殺などのような、否定しようのない証拠がありません。
反日勢力が持ち出す証拠は、保守派によって簡単にそのウソが見破られています。
慰安婦問題については、少し考えてみれば、算数と一般常識でそのおかしさが分かります。
ところが例えば通州事件は、次のように逃げ延びたり、実際に現場を見た人たちの証言が残っています。
同盟通信記者、安藤利男
支那駐屯歩兵第二連隊長萱島高中将(通州事件後に駆けつけた日本軍の長)
同上村尾大尉夫人
冀東政府長官秘書孫錯夫人
保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人
同上歩兵砲中隊長代理桂鎮雄元少佐
同上桜井文雄少佐
興味深いのはここからです。
こういう事件が起こると普通、欧米では賠償のための講和会議が行われます。
事件を起こした悪い方が、被害者にどうやって賠償するか、罪を償うかを決めるものです。
欧米ではこういう時には必ず多額の賠償請求を行います。
約4千人がほぼ無傷で助かった義和団事件では、当時の中国の国家予算の何倍もの金額となりました。
通州事件に対する日本は、中国から信頼が厚くて元外交官の実業家、紡績組合の理事長であった船津辰一郎に全てが委ねられました。
その結果、蒋介石側に和平を働きかけることになったのです。
あれだけひどいことをされた挙句、和平を働きかけたのです。
どれだけお人好しなのでしょうか…
その内容は、日本は満州事変以後に得た権益のほとんどを放棄する代わりに、中国側は満州国を黙認して、反日運動を取り締まるというものでした。
日本にとって不利益なことも含めて全部丸々中国側の言い分を丸呑みするので、争いをやめようというものでした。
そこで通州事件に対する賠償請求をしないというところまで譲歩したのです。
日本人がいかにお人好しで外交に弱いかが分かります。
日本人の人の良さは他にも、通州事件の証言の中の、襲われている日本人のひとりの証言でも分かります。
「日本人は逃げろ〜!」
と叫んでいたそうです。
「助けてくれ〜!」ではなくて、
「日本人は逃げろ〜!」なのです。
東日本大地震の時の遠藤未希さんを思い出してしまいます。
自分のことよりも、他の人のことの心配なのです。
南京事件の実態
盧溝橋事件、廊坊事件、公安門事件、通州事件と、争い事が続きました。
そして日本は通州事件のような悲惨な事件が起きたのにもかかわらず、世界の常識を破って船津工作に基づいて、中国国民党軍と停戦協定を結ぶことになりました。
その停戦協定締結の日の朝に起きたのが上海事件でした。
海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で移動中に、中国の保安隊に機関銃で撃たれて殺されてしまいました。
射殺後に中尉は車から引き出されて頭部を2つに割られるという奇行も行われました。
停戦協定は当然なくなりました。
そしてその翌週に、上海に駐屯していた4千2百の日本の日本の海軍陸戦隊に、5万人もの国民党軍が襲ってきました。
そこには約3万人もの日本人居留民もいたそうです。
決定が遅い日本の政府は、それでも松井石根大将率いる10万人からなる派遣軍を送りました。
国民党軍は、それに対して60万人もの部隊で迎え撃とうと準備をしていたそうです。
強い日本軍は何とか勝利したものの、4万千人もの死傷者を出しました。
その時のイギリスの新聞の報道が残っているそうです。
「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の市民の危険が非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである」
上海を落とした日本軍は、国民党軍のトップである蒋介石を追って、敵の本拠地である南京に進みました。
城外での激しい戦闘の後、日本軍は1週間後の何時何分に砲撃を開始すると明記したビラを撒いたそうです。
そこには一般市民もいるので、その市民に避難する時間を与えたのでした。
国際法にのっとった行動です。
12月10日に総攻撃が開始されて、13日に南京城は陥落しました。
14日に入場した第10軍の山崎参謀の日記が残っています。
「南京城東部は、広漠たる空き地にして都市計画の雄大さを認む」
つまり、日本軍が攻めてくることを知った国民党軍は、市民たちを追い出して、火を放って何もかも燃やしてしまっていました。
残っていた敵を掃討した佐々木第30歩兵旅団長の日記では…
「住民はひとりも顔を見せない。痩せ犬だけが無表情に歩いたり寝そべっていた」
歩兵第38連隊の戦闘詳報によると…
「興衛および十字街付近は、小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず。敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり」
そしてニューヨークタイムズのダーディン記者は…
「中国軍による焼き払いの饗宴 / 1937年12月7日、日本軍が進撃を始めた。これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。南京に向けて15マイル(約24km)に渡る農村地区では、ほとんど全ての建物に火が付けられて村ぐるみ焼き払われた。農業研究所、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関にも向けられた。中国軍による焼き払いの損害は優に3千万ドルにも及ぶ」
ちなみに国民軍のトップ、蒋介石は上海で日本軍にかなわなかったので、南京でも勝てないと思ったのか、12月7日の時点で既に南京から逃げてしまっていたそうです。
そこから蒋介石の戦法が変わりました。実力では敵わないと思ったのか、プロパガンダに訴えるようになったのです。
30人〜40人もの内外のジャーナリストや外交官を集めて、年間に300回も記者会見を行うようになりました。
その記者会見では、有る事無い事、日本軍が不利になるプロパガンダを行ったのですが、南京の戦いの話しは一度も出てきませんでした。
南京虐殺はその後に捏造されたお話しなので、その頃の蒋介石は、まだそれを思い付かなかったわけです。
つまり南京虐殺は、
20万人は大袈裟でも、何万人かはあったのでは? とか、あるいは
何千人かはあったのでは?
というお話しではなく、全くなかった、完全なるフィクションというわけです。
ちなみに南京は終戦後に日本軍が去った後、中共軍に制圧されて、一般市民の約3人に1人が殺害されたそうです。
さらに詳しくは、こちらをご覧下さい。
他にも慰安婦問題やその他多くのことを詳しく書いていますので、興味のある方、我々のおじいちゃん、ひいおじいちゃんたちに濡れ衣を着せたままでは申し訳ないと思われる方は、是非一度「www.ganbarenihon.com」をご覧下さい。