今の日本を作った薩長土肥

日本は幕末に黒船などによって、約260年間も続いた鎖国を終わらされました。

鎖国の重い扉は外圧によってこじ開けられた形です。

歴史に「もし」はナンセンスですが、黒船などの外圧がなければ、徳川幕府はひょっとして300年以上続いたのではないでしょうか?

それほど磐石な幕府であったと思います。

事実としては鎖国の終わりと同時に、江戸(徳川)幕府もその幕を閉じました。

そして生まれたのが明治政府です。

その要人は、特に薩摩と長州、そして土佐、肥前の人たち、いわゆる薩長土肥で占められていました。

どうしてでしょうか?

薩長土肥が明治維新のエンジンになったからです。

それまでは正に群雄割拠であった日本の統一を、織田信長が始めて豊臣秀吉が引き継ぎ、徳川家康によって完成しました。

徳川幕府が生まれる前、天下分け目の決戦として有名な関ヶ原の戦いは、統一された日本全体を誰が治めるかを決める、豊臣秀吉側と徳川家康側の戦いでした。

家康側が勝利して江戸幕府が始まりました。

薩長土肥は関ヶ原の戦いでは負けた豊臣秀吉側にいたので、敵である徳川家に260年間服従、支配されていたことになります。

その江戸幕府が終わり、明治維新では薩長土肥が中心になり、まるで徳川に復讐するかのように明治政府が誕生、それが今日の日本に続いているのはとても興味深いと思います。

薩長土肥の土、土佐からは坂本龍馬が出ていて、肥はあの「葉隠」で有名な佐賀藩です。

4藩の中でも特に中心勢力だった薩長の両藩は凄い藩でした。

まずは薩摩藩。

当時の日本に藩は200以上ありました。

現在の47に分けられた都道府県より多くありました。

多くあったと言うことは、各藩が小さかったということになります。

その中のたったひとつの藩で、その頃の世界の強国、あのイギリスと戦争をしています。

しかも歴史上のその結果は引き分けとなっているようです。

でもその実態を詳しく見てみると…

戦死者: 薩摩側1人、イギリス側13人

負傷者: 薩摩側9人、イギリス側50人

市街の死傷者: 薩摩側9人

負傷者の死亡: イギリス側7人となっています。(数字はウィキペディアより)

薩摩側は市内を大砲で攻撃されたりしたそうですが、イギリス側も軍艦がやられて将校が戦死したりしています。

どうして薩英戦争が起きたのか?

その理由もこれまたとても興味深いです。

それは生麦事件と呼ばれています。

生麦事件は、薩摩藩島津の殿様の大名行列に、馬に乗っていた4人のイギリス人が遭遇した時に起きました。

当時の大名行列と言えば、それを目にしたら一般人は地面にひざまずき、頭を下げることは時代劇などを見て私たちは知っています。

本当にそうしなければいけないのか、立ったままでも良かったのかまでは知りません。

私の想像ではひざまずかなくても、敬意を表すれば立ったままでも良かったのではないかと想像します。

でもイギリス人は当然のことながら、そんなことは全く知りません。

言葉が通じない不幸もあったでしょう。

それは現在の横浜、鶴見区の生麦村という所で起きたそうです。

道幅が狭い通りだったそうです。

そこでその4人は、馬に乗ったままで大名行列に入ってしまうことになってしまったそうです。

そうなると、当然のことながら護衛の武士たちが「無礼者‼️」とばかりに斬りかかります。

その結果、1人は切られて死亡、2人は重症となったそうです。

生き残った人は、命からがらアメリカ領事館に駆け込んだそうです。

ところで当時のアジア、東南アジアはどこの国も西洋諸国の植民地になってしまっていました。

植民地となった国の人たちは、それはそれはひどい仕打ちを受けていたそうです。

西洋の国に、西洋の進んだ武器、銃などで制圧されて搾取されていたわけです。

西洋人はアジアで我が物顔をしていたそうです。

イギリス、オランダ、ベルギーなどの先進西洋諸国は、植民地からの搾取によって富を築いていました。

イギリス王室などと聞くと、普通はついかしこまってしまいます。

でも本当にそういう対象なのでしょうか?

西洋では、その時代で最も強かった者が王になったようです。

そして他国を侵略して植民地として貪り富を築きました。

そういう土台に基づいた王室です。

他者を虐げて築いた富です。

今の中国(共産党)と似ていないでしょうか。

逆に言えば、今日では信じられない当時のそんなひどいことを、中国は今現在でも平気で行っています。

ウイグル、チベット、モンゴルのことです。

それでは長州藩は何が凄かったのでしょうか?

長州藩は何と、当時の列強イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヵ国連合と戦争をしました。

下関戦争、あるいは馬関戦争と呼ばれる、2度にわたる戦闘です。

これもウィキペディアによると、1回目の1863年の連合国軍側は軍艦3隻、2回目の1864年は連合軍兵士 約5,000人、軍艦17隻となっています。

それに対して長州藩側は約2,000人、
軍艦4隻となっています。

死傷者数は、連合軍が62人、長州藩が47人となっています。

負けた長州藩は、講和会議にあの高杉晋作を代表として出しました。

高杉晋作は当時何とまだ25歳でした。

彼の有名な言葉、「面白きこともなき世を面白く」は聞いたことがあると思います。

両藩共にとんでもなく気骨がある人たちのようです。

ところで、幕末の頃に日本で起きた外国人襲撃の事件が、ウィキペディアの「幕末の外国人襲撃・殺害事件」で出て来ます。

ハリス(初代駐日領事)襲撃未遂事件

ロシア海軍軍人殺害事件

フランス領事館従僕殺害事件

日本人通訳殺害事件

フランス公使館放火事件

オランダ船長殺害事件

フランス公使従撲傷害事件

マイケル・モース事件

ヒュースケン殺害事件

第一次東禅寺事件

生麦事件

英国公使館焼打ち事件

長州藩士高杉晋作は、優柔不断な幕府に攘夷を決行せざるをえないようにするため、イギリス公使館の焼打ちを計画した。

一行は、文久2年12月12日の深夜、厳重な警戒を突破して建築中のイギリス公使館に潜入、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文首相)らが焼玉を使ってこれに放火した。

井土ヶ谷事件

鎌倉事件

鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)

ハリー・パークス恫喝事件

アーネスト・サトウ襲撃事件

サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow、1843年6月30日 – 1929年8月26日)イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使、枢密顧問官(『エルギン卿遣日使節録』、『ペリー日本遠征記』を読んで日本の虜になってしまう)

サー・アーネスト・メイソン・サトウが残した言葉:

「空がいつも真っ青なこの国の、絵のような美しい色鮮やかな描写」、

「幸福な島国」、「それはまさに日本的特徴である輝かしい日々の一日であった、

江戸湾にそって進んでいくと世界中これに勝る景色はないと思われた」、

「私の人生で最も活気に満ちた時代」

イギリス水兵殺害事件(イカルス号事件)

ヘンリー・スネル襲撃事件

英国水兵襲撃事件

神戸事件

堺事件

パークス襲撃事件

当時これだけ外国人襲撃の事件が起きている…

しかもこれはほんの一部で、例えば当時日本に来ていたイギリス外交官、A. B. ミッドフォードさんの回想録によると、当時の日本人による外国人襲撃はあちこちで起きていたそうです。

当時日本に来ていた外国外交官は常に命を狙われていたようで、必ず護衛が付いていました。

こうやって見てみると、「日本人ってかなりの野蛮人?」と思いがちです。

そうでしょうか?

いえ、違います。

逆に日本人は、世界の中で最も野蛮でない、非好戦的な民族のひとつです。

相手のことを慮る、気配りをする国民です。

争い事をなるべく避けようとします。

それが例えば弁護士の数、少なさにも現れています

では、どうして当時これだけの事件があったのでしょうか?

それは当時、それだけ日本が危機に面していたからではないでしょうか?

お侍さんたちが必死だったのではないでしょうか?

周りの国々を見渡せば、どの国も西洋の植民地になってひどい仕打ちを受けていました。

長州藩ではヤンチャで有名だった高杉晋作は、25歳になる前に中国に行く機会があったそうです。

西洋人に虐げられている中国人を目にして、自国日本がそうなってしまわないかをとても心配したそうです。

当時の日本人は、言ってみれば恐怖心からこれだけの外国人襲撃事件を起こして西洋に抵抗したというのが本当のところだと思います。

いざとなれば戦う日本人。

しかも徹底的に抵抗する…

第二次世界大戦も、もし徹底抗戦派の意見が通って本国決戦になっていたら大変なことになっていたようです。

アメリカ側には、原爆の投下に限らずに、その後も日本を徹底的に潰す計画が用意されていたそうです。

自分の命をも顧みずに敗北を認めて終戦とする決心をした昭和天皇の存在が浮かび上がります。

投稿者: netdeduessel

日本人のための、ドイツの生活応援サイト

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