忙しいとは、心を亡くすと書くそうです。
「善きサマリア人の実験」 というのを知ると、特にそう思います。
<善きサマリア人の実験>
プリンストン大の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンがおこなったものです。
「善きサマリア人」というのは、新約聖書のルカ福音書にあるお話です。
「ある旅人が追いはぎに襲われ、半死半生のまま道ばたに捨てられた。
通りかかった司祭もレビも(人徳あり敬虔なはずなのに)道の反対側を通り過ぎていった。
ただ一人助けたのは、軽蔑されていた少数民族のサマリア人だった」というお話です。
この実験では、任意に選んだ神学生に、聖書のテーマに基づく談話を近くのビルまで歩いていって発表してくれるよう、依頼しました。歩いていく途中に、行き倒れている人に出会います。
その時、どの神学生が立ち止まって、その人を助けようとするか?
これを調べようという実験です。
実験では、(1)学生が神学を選んだ動機の種類、(2)依頼する談話のテーマが「職業としての聖職者と宗教的使命の関係」か「善きサマリア人のたとえ話」か によって、立ち止まって助けようとするかどうかに差が出るかを見ました。
「人助けのような実践的なことをしたいから」という動機で、「善きサマリア人」の話をしにいこう、と思っている学生のほうが、きっと立ち止まって助ける割合が高いだろう、と思うでしょう?
ところが、結果を見ると、動機や談話のテーマによる差は出ませんでした。
この実験では、もうひとつ学生への指示を変えていました。
半分の学生には、「あ、遅刻だ。先方はすでに待っているから急いだ方がいい」と言って、送り出します。
もう半分の学生には、「まだ時間はあるけど、そろそろ出かけたらどうか」と言って送り出したのでした。
学生の行動を唯一左右したのは、この「急いでいるかどうか」でした。
急いでいるグループで立ち止まったのは10%、まだ数分の余裕があることを知っているグループで立ち止まったのは63%だったのです。
この実験の結論として、「行動の方向性を決めるに当たって、心に抱いている確信や、いま何を考えているより、行動しているときの背景のほうが実は重要である」ということが挙げられています。
私はこの実験に、「スローの力」も感じます。
私たちが自分や人に対してぞんざいな対応をしてしまったり、地球環境のことを考えなかったりするのは、私たちの人格や性格、思考が悪いのではなくて、「つねに急かされている」という状況や背景の力が大きいのではないか、と。
そうしたときに、「スロー」の持っている潜在的な力を感じるのです。
急かされていたら10%の人しか、自分や人や地球のために立ち止まり行動を変えないかもしれない。
でも「スロー」でこころに余裕があれば、63%の人がそうするかもしれない。
出典元: イーズ共創フォーラム
世の中がとても便利になり、人間の移動は自転車から始まり電車、車、飛行機などで信じられない程にそのスピードがアップしました。
そして家電は、主婦や独身族から家事という仕事を奪ってくれました。さらには電話、テレックス、ファックス、インターネットが、それまでは手紙だけだった、人と人とのコミュニケーションを、これもまた信じられないくらいに簡単に、そして電光石火のようにしてくれました。
我々人間は、何をこれ以上望むのでしょうか… これだけ人間の仕事が楽に簡単になって、途方もない余裕の時間が生まれた「ハズ」です。
でも実際には逆に誰もが忙しくなるばかり。一体どういうことでしょうか? 忙しいとは、心を亡くすと書くそうですが、正にその通り。
忙しいというのも、実は自分の欲から来ると思います。誰もが「仕事だから」とか、「会社のため」とか、「家族のため」とかの理由を付けますが、本当でしょうか?
ある意味では本当でしょうが、それでも自分の時間は自分の掌の上にあるものです。自分の前に現れた壁を超えられないと(勘違いして)、できない理由をいくらでも思いついてはしないのと同じように思えます。
「仕事だから」とか、「会社のため」とか、「家族のため」とかの理由も、実際には自分の欲だとは考えられないでしょうか?
どうして「会社・仕事のため」なのでしょうか? 上司に認めてもらうため? お給料を上げてもらうため? 少し手前で線を引いたらボンクラの烙印を押されてしまうでしょうか? お給料が下がってしまうでしょうか?
どうして「家族のため」なのでしょうか? 本当にそうでしょうか? 子供は本当にそれを望んでいるのでしょうか? 本当に子供のためになっているのでしょうか? 自分の自己満足になってしまっていないでしょうか?
楽を求めるばかりに、世の中の間違った情報に惑わされ、私たちはこのまま一体どこへ行くのでしょうか。
間違った情報というか、産業・メーカーの企みにまんまと引っかかってしいそうな最近の簡単な例で、SUVの宣伝。
ある日本の有力メーカーの広告だったので少しがっかりしたのですが(本当はかなりがっかりで失望レベル)、映画館の中で4席だけが少しだけ高く宙に浮き、映画が見やすいことを現していました。
つまりSUV だとシートの位置が高めで前方が見やすいということの説明のようです。まさかこんなアホな広告に騙されてSUV を買ってしまう人はいないと思います(願います)。
その4人はそれで良いでしょうが、その後ろの人たちはどうなってしまうのでしょうか?
第一、もし多くの車がSUVタイプの車になってしまったら、もう全くその意味すらなくなってしまいます。
そうしたら、もっと、もっと、さらにシートを高くするのでしょうか?
高速道路を走っていて、すぐ前の車だけを見ているドライバーは少ないと思いますが、もしそういうことをしているドライバーがいると、玉突き事故につながってしまう可能性があります。
つまり本来は、玉突き事故をなくすために、自分のすぐ前の車だけではなくて、数台先まで見ていることが必要です。
(玉突き事故もみなさん余裕が無くて車間距離が短すぎるから起きます。車間距離が短くてスマホなどをいじってる?)
ところが、SUVの車が前にいるとその車の前まで見えません。よってかなりの車間距離を置かないと危ないのです。
SUVタイプの車は、考え方によっては玉突き事故を起こしやすくしているかもしれません。
駐車場でいつも顰蹙を買っているのも、車体のでかいSUV です。
SUVはあれだけの思い鉄を動かしまわり、ガソリンを使いまくり、不健康で非効率な肥満と一緒ではないでしょうか。
特にポルシェやBMW のSUV を見ると眉を寄せてしまうのは貧乏人の僻み(笑)?
でも決してSUVを最初から好んで乗る人を批判しているのではありません。
昔ならジープに乗るような人たちです。
元々SUVに興味がない、普通なら一般車を買うであろう人たちをSUVに向わせようとするメーカーへの批判です。
好みが違うのは、この世界には色々な人間がいる以上はしょうがないものだと思います。
川崎英一郎
「自分のため」というのはホント、かなり嘘がありますね。
でも私などは、何かのため、と何かに罪を擦り付けて働かないと、
動けないタイプの人間でしたね。心に余裕があるかないか以前の
「ぼんくら」タイプだったなあ、とひしひし過去を振り返ります。
ありのまま、の私は「ナマケモノ」よりスローだと思います。