前の記事から間隔が空いてしまいました。まだ学問のすすめ 初編のしかも途中だったのですが、続き
を見ていきたいと思います。さすがに学問のすすめに関しては長くなりそうです。
初篇の続き
人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。
個人も国も自由なのは天の道理。国の自由が奪われそうになったら、たとえ全世界を敵に回したとしても恐れることはない。個人の自由を奪おうとする者がいたら、たとえそれが政府の役人であっても遠慮はいらない。自由は何があっても、全世界を敵に回してでも!、守らなくてはいけないのである。
ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。
身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。
物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。
これすなわち学問の急務なるわけなり。
士農工商の世の中から四民平等の世の中になった。誰もが安心して自分のなすべきことをなすことができる。しかし、誰でも何をやってもよいというわけではない。それぞれの立場、役割に応じて必要な能力と行いがなくてはいけない。
~それはそうですね。医学の知識もないのに医者になられたらたまりません。字が下手では書の先生にはなれません。それぞれの本分を全うするためには才徳(才能と徳行)を身につけなくてはいけません。
昔の日本は「徳」に非常に重きを置いていました。「才徳」ですから、能力だけではなく、人格者としての行いが求められています。
その才徳を身につけるためには物事の道理を知らなくてはいけない、物事の道理を知るためには学ばなければならない。だから学問が必要なのだ。武士だけが政治を行ってきた江戸時代までとはちがって、農工商の人間でも政治家にも慣れれば医者にもなれる、教師にもなれる。しかし、それに相応しい人物になるために学問、教育が非常に重要であるということです。
このあと諭吉は「無智」を激しく否定しています。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、と言っています。無智と無恥。また、相応の身分があっても子弟に教育をしなければその子孫は愚か者になると言っています。
そしてここからがまた面白いところです。
かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。
「天は自らを助くるものを助く。」
スマイルズの自助論(西国立志論)は明治維新後の日本において学問のすすめと肩を並べるほどの大ベストセラーとなったそうです。福沢諭吉も当然大きな影響を受けていたはずで、学問のすすめで説かれていることにはスマイルズと共通するところが大いにあります。
自助論には次のような個所があります。
「一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にしかすぎません。」
「国がどんな法律をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。」
「りっぱな国民にはりっぱな政治、無知で腐敗した国民には腐り果てた政治しかありえないのです。」
自分たちが賢くならないと政府が悪政をおこなって自分たちを苦しめることになる、と言うのです。
これはなんとも考えさせられるとともに身につまされます。
逆にもし国民が学問に志して物事の道理を知り、智恵と徳を身につけたならば政府もそれに見合った良政をおこなうようになる、ということです。まさに鏡です。
学問をすることで賢くなり、政府に悪政をさせないようにする。ちょっと言い方が悪いですが、そのように言いかえる人もいるでしょう。仮にも民主主義の世の中になったのですからこれはなおさらのことです。「民主」主義、「国民」主権ですから主権を持つ国民=私たちが愚かだったら大変です。昔は年貢を納めていれば政治のことは考えなくてもよかったのですが、今は国の政治のことを1人1人が考えなくてはいけなくなりました。(理屈、理想では)国民主権ですから。主権を王様から取り上げて自分たちの手に納めたということは。
法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。
法、政治の良し悪しは国民の徳のレベルで決まる。
良政よりも悪政を好むものがいるだろうか。
自国が外国に馬鹿にされるのを平気でいられるものがいるだろうか。
ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。
国民は
行いを正し、
学問をして
幅広く知識を身につけ、
それぞれの本分に見合った智恵と徳を身につけることで良い政治がおこなわれ、国民は悪政に苦しむことなく、ともに平安(ここには国と個人の自由も含まれていると考えます)を守らなくてはいけない。
学問のすすめ 初篇ではこのようにまず「人類の幸福」が目的であるとし、「自由、独立」の価値、貴さ説き、国民の智恵と徳が良政を、無智、腐敗が悪政を招くことを説いています。
さあ、お子さんに「なんで勉強しなければいけないの?」と問われたら何と答えますか?
ちょっと乱暴ですが、学問のすすめ 初篇で掲げられていことを端的に表すと「人類の幸福のため」「自由のため」「平和のため」。
しかし、言葉で言うだけは簡単ですが、その内容、本質は実に深く意義のあるものですね。
誰でも幸せになりたいはず。学問はなんと幸せになるため、しかも自分だけではなくみんなが幸せになるためにある、本来はそうだったはずですよね。
ASOBO! 山片重信
http://asobo.de
子供たちにスキーを始め色々な遊びの体験をしてもらうASOBO!を主宰。
元々は中学・高校受験の大手塾講師。現在も理数科目の指導を行っている。
ブログランキングの応援クリック、
宜しくお願いいたします!
↓↓↓ ↓↓↓
物事の道理を知るには、知識だけでは不十分です。実際に自分でやってみないと空論になります。最初の1歩を踏み込んでみて始めて見えるものがあります。それをしない人(特に女性) が多いので、ついついマスコミのいい加減な情報にやられてしまいます。
武士だけが政治を行ってきた江戸時代でも秀吉のような人もいます。やはり問題になるのはやる気、熱意ではないかと思います。 為せば成る...
実は掃除にも、「人類を平和、幸福にする」効果があります。なぜでしょうか?
その理由はこちら ⇒ http://wirmachendeutschlandsauber.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%8E%83%E9%99%A4/
人間の作る法律は、とてもいい加減なものなので、時代と共に変更が必要です。ところが自然の法則(法律) は未来永劫不変です。「学問のすすめ」 はそれ(後者) に近いものがあると思います。
つい最近の鍵山さんの「一日一話」にあった、10の能力を与えられたものが10の力を発揮する、そのための努力をするという方が、100の能力を与えられて70の能力しか使わない、努力しない人より勝る、みたいなのがありましたが、正にその通りだと思います。
戦後の日本の問題は、インテリ層が左に走って日本をおかしくしてしまっていることだと思います。インテリなのだから、「本当にそうなのか?」と疑い、納得するまで自分で調べて欲しいところなのですが、意外と素直にGHQ を信じて(?)自虐史観に浸ってしまっています。
特に私の上の世代の方々(戦後すぐから昭和20年代頃生まれまで)で、目をそらしてきちんと見ようとしない人たちがみなさんやられてしまっています。私が尊敬する人たちでさえそうなので、本当に悲しい限りです。
数百年間にも及ぶ西洋から有色人地への恐ろしい植民地化の歴史を知れば、その当時の日本の様子、立場、取らざるを得なかった事情を容易に想像できるのですが...
「学問のすすめ」も、「自助論」も、結局は「努力」の一言に集約できると思いますが、明治のあの頃だからヒットしても、今の「茹で蛙」状態の日本ではヒットは難しいかもしれません。
これも鍵山さんの言葉ですが、国とは、国民一人ひとりの行い ⇒ 村 ⇒ 町 ⇒ 市 ⇒ 県 ⇒ 国 だと思います。他人任せ、自分だけは楽をしても、ちょっと位悪いことをしても全体では大丈夫...というとんでも無い考えが国を悪くしていると思います。
でも特に311の後、全体から見れば数は少なくても立ち上がる人たちが現れているようで本当に心強く思います。
今日安保改正法案が可決し、もう少しすれば北海道の自衛隊はソマリアなどの地へ行き、アメリカの防衛部隊として命の危機にさらされます。この国会での可決の仕方、乱暴粗悪で、違反だらけ、
集まるべき場所でない所でこっそり与党の多数決で可決してやろうという民主主義とは言えないほど遠いもの。ちなみに世論調査、国民の8割がこの審議の仕方に異議を覚えています。
国会外のデモ行進の方がなんと基本的で正しく、「言いたいことは一つ」なことか。
60年安保闘争以来の最大のデモ、それも若者が集まるデモでした。
私は、「愚鈍な議員に良心を持った多くの若者の国」だと思えて、前述の「学問のすすめ」に反対の感想を持ってしまいました(泣)。元グラビアアイドル、元居酒屋の社長、ゴルフのコーチらが集う国会議員を悪くいうつもりはありませんが、今の世、議員、政治家よりも、少数制の人数で大学でみっしりしごかれている学生の質の方が政治家を凌駕しているように思えてなりません。
「学問のすすめ」の時代は民主主義の幕開け、明るさは確かに感じるのですが。みんなでがんばるんだ、政治家だけがんばるんじゃないんだ、という意欲というか熱意は感じられますが。
おっしゃること、大変よくわかります。
若い世代に今の政治の責任はなく、上の世代にあります。
今の若者たちがこういう国をつくってきた、許してきたわけではなく、
上の世代がつくってきた社会、政治ですよね。
それをみなよしとしてなあなあで長いこと来てしまったツケではないでしょうか。
安保闘争については詳しくはないのですが、安保闘争で反体制派だった学生も安保後、大きな体制に飲み込まれ、その中でもがむしゃらに働いて日本経済の発展に貢献し、経済的な豊かさをもたらしたのだと理解しています。
しかし、どんな国も豊かになった後は堕落、退廃期に入り、風紀は乱れ、国政は腐敗し、衰退していきます。
盛者必衰の理、これは歴史が証明していることですから日本だけが例外になることはないでしょう。
勝って兜の緒を締めよ、ができないものなのですね。
政治がどんなにひどくても暮らしがそこそこ豊かだからまあいいか、
あるいは政治に無関心。目の前が楽しければいい。今が良ければいい。
それに何を言ったって政治はどうせ変わらない、というあきらめがずっと長い間日本を支配していたように思います。
今、格差が広がり、深刻な事態になってきていますが、経済界、企業人は残念ながらそこには関心がないのではないでしょうか。
日本にいたころいつも思っていたことがあります。
塾で教えていたのですが、子供たちにとってテレビの情報は絶対でした。
「だってテレビでそう言ってたもん。」
テレビが間違ったことを言うはずがない。
テレビが政治家の汚職だったりを一斉に報道すると
子供たちも真似をします。
当時は鈴木宗男氏がやり玉に挙げられていました。
子供同士の間でちょっと弱い子には「ムネオ!」と馬鹿にするような言い方で呼ぶありさま。
テレビでは次々にターゲットを変えて、大体芸能人か政治家、企業の不祥事を報道します。
報道だけならよいのですが、わけのわからないコメンテーター、芸能人などなどいろいろ出てきてあーだこーだと文句を言ってあいつが悪い、こんなこともやっている、といじり倒します。昨今のいじめの構図そっくりだな、と思ったものでした。
ターゲットを次々に変えては、まったく何の関係もない人間までが加わってよってたかって一人の人間を毎日朝から晩までしつこく攻撃する。
しかし、テレビ局はそれで視聴率を稼げるからやっているはずです。
ということは、そういうのを見たい人がたくさんいる、ということです。
そう思ってテレビと人々の反応を見ているとたまらなくイヤな気持ちになります。
マスコミが誰かをたたく、その尻馬に乗って日本中みんなでよってたかって罵倒する。
それを子供が見ていて真似をする。
その裏で実は政治が知らぬ間に進んでいく。
伊丹十三の父、伊丹万作が終戦の翌年に書いた「戦争責任者の問題」という文があります。
もしまだお読みでなければぜひぜひご一読ください。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
日本人は責任の所在をあいまいにするところがあります。
根が優しいので、しかたない、まあ、いいじゃないか。
それがどんどん積み重なっていくと・・・
やはり責任は自分たちにあるのだと思います。
評論家が多過ぎるのかもしれません。評論家とは(実践が伴う評論家さんと、素晴らしい評論家さん、ご免なさい) あ~だ、こ~だと言うだけでしない人です。それでは最近立場がまずくなりつつあるメルケルさんと同じです。
かなり???と思えるデモも多いようですが...笑。
どの集団が善いか悪いかではなく、どの集団にも善い人と悪い(?) 人がいるようです。
「学問のすすめ」は人間が生きてゆくための最低限必要なもののような気がします。