デュッセルドルフの7月の星空+夏至の話

私は長年、地中海世界で星空を眺め、星空を撮影してきました。
暑く乾燥した世界の天と地の間で、オリオン座を意味する古代の紋章を20年間探し続けてきました。 長い放浪の結果、様々な星空を語ることが出来ます。月々の星空を紹介しながら古代へとタイムスリップの旅に誘うページとご理解ください。

今月の夏至(と春分)の話は特別に長いです。しかも日本人には関係ない世界を扱っていますので、日本語のわかる考古学好きなドイツ人を意識して書いています。

■7月の星空
今月はどんな星空なのか紹介します。

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デュッセルドルフ、7月15日24時00分頃の星空。

先月さそり座が低いと説明しましたが。黄道星座が低いです。夜空の南回帰線をトロピック・オフ・カプリコーンですから、しばらくは黄色で描いた黄道は低い訳で、黄道星座も低いです。こんなに低くては占星術の効果も弱まるのでは・・・、なんて気にもなります。

住んでしまえば当たり前なのですが、やはり驚いてしまいます。更に月はもう少し南中高度が低い時もあります。太陽が通過する黄道面に対して、月が通過する軌道を白道といい、その軌道面を白道面といいますが、黄道面に対して5度ほど傾いています。月が黄道面と通過する点を交点と呼び、年に2回あります。この時、世界中の何処かで日食や月食が見られることになります。最近では4月10日頃でしたので、次回は半年後の新月か満月の状態に注目すれば良いわけです。

7月2日  金星とアルデバランが接近
7月 6日  月とスピカが大接近、火星も接近
7月 8日  月と土星が接近
7月中旬  火星とスピカが大接近(離隔は1.5度!月の視直径3個分!)
7月12日  満月
7月13日  水星が西方最大離角(明け方の東の空です)
7月27日  新月
7月28日  みずがめ座δ南流星群が極大の頃(出現期間7月15日〜8月20日)

 今月は7月下旬のみずがめ座流星群が面白そうです。数は望めませんが、輻射点が低いため、運が良ければですが、南の方から北の方へ向かう長い流星が見られます。8月は有名なペルセウス流星群がありますし、8月10日の満月はスーパームーンとなります。

*月と星や惑星の接近した星空の記載された日に一番近づきます。というのも、月は翌日は約50分も遅れて昇ってきますので、昨晩の位置から約13度東寄りになります。更に南北移動が大きいので、星空の状態は大きく変わってしまいます。

 

■夏至について

「夏至」は天文学的には太陽黄経が90度の位置にやってきた時のことで、特定の日を夏至と位置付けている訳ではありません。流石に古代社会ではここまでの認識はなく、太陽が一番北から昇る日が一番日照時間が長いのですから、この日を夏至としていました。つまり太陽が新しいサイクルに入る記念すべき節目なわけです。夏至を新年とした文明としてはエジプトや古代ギリシャ世界(アテネやマケドニア地方)があり、メソポタミア方面は春分の頃が新年だったようです。

 

◯暦について(色々なカラクリがあります)

エジプトは太陽暦ですが、古代ギリシャ世界では太陽太陰暦と呼ばれ、太陰暦で月を表しますが、太陽年の節目(夏至)に合うように閏月を挿入していました。アテネではポセイドンの月と呼ばれる12月(現在の6月)が終わると閏月として第二ポセイドンの月を挿入しました。太陽暦と比べると太陰暦は一年が速く終わってしまうので、数年に一度閏月を挿入して、不足する日数を調整していたのですね。

8太陽年(2992日)が99太陰(朔望)月(2920.5日)とほぼ同じになります。1太陽年を365.25日で換算すると2922日。1年を365日で換算しますと2920日となります。一方の月ですが29.5日で計算しますと、99朔望月で2920.5日となります。古代ギリシャでは29日の月と30日の月がありました。現実には1年は365.24…と続きますし、月は29.53日の周期があります。長い時間を掛けてズレを直していった歴史ということです。

この8年周期はギリシャ神話では「8年を1神年」と考えていました。古代オリンピックが4年毎に行われたのも49か50太陰月毎に行えば、キリが良かったことがわかります。紀元前776年にエリス王イヒテスによって再興される前は、オリンピックの周期は8年毎だったようですが、忘れやすいのか(現代ギリシャ人もいろいろと忘れやすいんですが、一夜漬けの天才でもあります)、祭典の方法がわからなくなっていたようです。競技者たちは夏至が過ぎて最初の満月にオリンピア近郊の古代都市エリスに集合して翌満月から競技が開催されました。特に21世紀初頭ではエリス遺跡の発掘が大きく進展し、オリンピック景気で潤った大きな街であったことがわかります。この経済効果を目論んで古代4大競技のひとつネメア祭では宗主国の座をネメア近郊のクレオナイと強国アルゴスが争いました。また競技の起源ですが、有力な人が死ぬとその死を惜しんで行われた葬送競技のようです。「イリアス」でもアキレウスの盟友パトロクロスが戦死した際に、この葬送競技が行われています。

より正確な暦としては、紀元前433年にアテネのメトンが19太陽年(6939.75日)と235太陰月(6940日)があります(7回閏月を挿入)。後の紀元前330年にカリポス周期(76年=940太陰月=27759日)が示され、更にヒッパルコス周期が304太陽年=3760太陰月=111035日となり、ヒッパルコス時代の1太陽年は111035日/304年=365.24671日となります。ちょっと書き方を変えると365日5時間55分15.7秒ということになります。現在では365日5時間48分45.2秒ほどです。ヒッパルコスの時代と現代では2150年の開きがあります。太陽年は1ユリウス世紀で0.53秒短くなるので、11.438秒ほど短ければ素晴らしいのですが、古代の観測ですから限界があります。因みにグレゴリオ暦では365.2425日になります。カリッポスやメトン周期では1太陽年を365.25日で計算しています。ヒッパルコスがメトン周期を16倍に伸ばして合致する周期を見つけて、より細かい数値を得ることができた次第です。まあこれはネタ的にはヒッパルコスが活躍した時代の304年前は紀元前450年頃になるので、アテネのメトン(とファイノス)が研究していた時代ですね。この時の資料を参考にしたと思います。古代ギリシャ世界では小数点以下の数字は(字母数の)分数で表記しました。α/βならば1/2となります。「日数/年数」が基本ですので、99/8,,,235/19,,,940/74,,,3760/304,,,となります。

さて先月も触れましたが、現在は夏至が6月下旬ですから、チョット困るのです。古代の異教世界ならば現在の7月1日が元旦に当たるからです。月の初め(月旦)が至点分点日と一致していないので、私は非常にストレスを感じます。夏至を新年としている古代文明では夏至が元日であり1月ということになります。その痕跡は現在のイスラム世界に残されています。彼の地では4月をニサンの月と呼び、7月をタンムズの月と呼んでいます。これらはアッカド時代(紀元前2500年頃)から使われている呼び名だということに気が付きます。過去にイスタンブルに滞在した私にとっては、可笑しさが止まりませんでした。多くのトルコ人たちはタンムズ月の呼び名が何処から来たのかもわかっていませんでした。しかもそれを知らずに普通に生活していることに更に驚いた次第です。古代のことを研究しますと、ニサンの月と言えばアキトゥ祭、タンムズの月と言えばタンムズ祭と呼ばれる重要な儀式が行われていたことを学びます。この2大祭は至点分点と密接に関係していることに気が付きます(後述)。

 

◯夏至の太陽について(チョット待てよ!巨石遺跡と夏至の関係)

昨今では世界中で紀元前3000年以前の遺構や遺跡が紹介され始めています。ヨーロッパにも古くから巨石文明遺跡(メンヒルやドルメンなど)が点在していることは紹介されています。それらの遺跡には夏至や冬至の太陽出現方位や太陽の南中高度が示されているものもあります。遺跡を建造するだけの人々が住む社会があれば、一年の特別な一日、つまり新年を知ることは重要だったことがわかります。私は多くの神殿タイプやモニュメントには太陽方位を意識した建築となっていることが確認できたとしても、全く驚かないのです。むしろ当然の帰結だと思うのです。何故ならは1年の凡その日数を知ることは、人々の共通の意識ですから。恐らく他の太陽系惑星に地球外文明が存在しても、その惑星の古代文明もその惑星の太陽方位に関係した遺跡が多数存在すると言えましょう。

実は太陽を追いかければ正確に暦がわかるのか、と問われれば、私は懐疑的になります。何故ならば天候の問題もありますが、何よりも太陽が至点に近い時、一日毎の南北移動が小さいのです。夏至周辺の出現方位を示してみますと、以下のようになります。北緯51度での太陽出現方位を揚げてみます。

北緯51度地域(デュッセルドルフ)

・夏至(太陽黄経90度)付近の日の出

紀元前5000年7月28日4時14分37秒(太陽黄経87度51分01秒) 方位48.132度 高度-0.447度
紀元前5000年7月29日4時14分56秒(太陽黄経88度50分46秒) 方位48.107度 高度-0.447度
紀元前5000年7月30日4時15分18秒(太陽黄経89度50分51秒) 方位48.097度 高度-0.447度
紀元前5000年7月31日4時15分44秒(太陽黄経90度50分23秒) 方位48.102度 高度-0.447度
紀元前5000年8月01日4時16分14秒(太陽黄経89度50分51秒) 方位48.122度 高度-0.447度

今年 2014年6月21日4時15分06秒(太陽黄経89度41分56秒)  方位48.846度 高度-0.442度

・春分(太陽黄経0度)付近の日の出

紀元前5000年4月27日6時39分39秒(太陽黄経358度48分51秒) 方位89.425度 高度-0.455度
紀元前5000年4月28日6時37分17秒(太陽黄経359度45分46秒) 方位88.813度 高度-0.455度
紀元前5000年4月29日6時34分55秒(太陽黄経0度42分41秒)  方位88.202度 高度-0.455度
紀元前5000年4月30日6時32分32秒(太陽黄経1度39分37秒)  方位87.590度 高度-0.455度
紀元前5000年5月01日6時30分10秒(太陽黄経2度36分34秒)  方位86.978度 高度-0.447度

今年 2014年4月20日6時34分28秒(太陽黄経359度31分47秒) 方位88.953度 高度-0.460度
*太陽方位は真北を0度として東回りに数値を出しています。
*太陽の視直径は約0.5度=30分角あります。
*夏至の太陽方位が現代と違うのは歳差運動による影響です。古代の遺跡建造物を考える上で此処は重要です。7000年で約0.7度の差ですから、現在の状態で説明しても意味はありません。夏至付近での太陽出現方位の南北変異は小さいですから、慎重に対処しなければなりません。

計算結果から、夏至の前日と夏至の出現方位角は0.01度=0.6分角、夏至の一日後では0.005度=0.3分角しか違いませんので、肉眼では方位角の差なんてわかりません。肉眼で感じられる移動はせいぜい10-20分角くらいです。ですから太陽を見て出現方位から夏至の日を割り出そうとしても、実は困難なのです。ですからこれらの遺跡は精度の悪い暦発見機と言えるでしょう。それでも凡その一年を知る手段とは成り得ます。

一方で、春分では南北移動が0.4度ですから、太陽の視直径の8割も移動していくことになります。基本的に正弦曲線と同じです。微分して最大が分点の時です。春分や秋分を見つけることは、実はたいへんです。というのも地球は太陽を楕円軌道を描いて公転していますので、焦点が2つ存在し、遠日点と近日点と呼ばれています。単純に夏至から冬至までの日数を2分すれば良いのではないんです。この日差が求められたのはヘレニズム時代になってです。天文学的には太陽黄経0度と180度の時ですが、古代の天文学者や神官はどう考えていたのでしょうかね(オイ!)。昼間と夜の長さが等しくなる、つまり太陽が天の赤道上にある訳で、冬至から春分までが89日、春分から夏至までが92日、夏至から秋分までが94日、秋分から冬至までが90日あります。ちょっと考古学を突いてみましょう!エジプトでは新年が夏至としますと、春分までの日数は94+90+89日なので273日かかります。太陰暦ではもっと酷いですが。。。

で、エジプトは1年が3つの季節に分かれます。舞台をルクソールのカルナック神殿に移してみます。ひと月が30日と決まっていますので、3日の差があることがわかります。つまり月初めに春分が来ることはない訳です。(正確な分点はわからないとした上で)月旦を仮に分点としますと3日前、真東から約1.2度北から日の出なら、地平線高度が1度なら都合が良いと考えてしまいますが、実際には東の方に山があります。(私が古代の地平線高度を考察する時、対象が近い場合は風化作用まで考慮に入れています)

で、ルクソールの「カルナック神殿大回廊は春分方位に向けられている」と半ば宗教のように語られていましたが、列柱に並ぶ雄羊像に翻弄されていますね。雄羊から古代の春分点があった黄道星座の白羊宮を連想させますが、ヤレヤレといった感じですね、この回廊は北から東回りに約120度の方位角であるので、分点方位とは全く関係ないですね。月初めに分点を迎えている訳でもなく、方位角も酷い訳です。

分点付近の太陽の日没方位角の速い南北移動は1年の特定の日を示す好材料ですが、真東を知るという作業ひとつとってみても意外と面倒なのです。真北と方位磁石の北はズレています。現代の細かい数字が出てくると古代の話ではなくなるので、脱線するのはこの辺で終わります。一言付け加えたいのですが、以上の理由から、考古学者たちが夏至や春分方位の話をする時は、眉に唾をつけて聞いたほうが良いですよ。多くの考古学者たちは天文のことはわかりませんから。。。逆に天文学者たちが古代の話をしようとしても天文学という考えの基準があるから頭が痛くなります。

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このように夏至の太陽は南北移動が極めて小さく、一年の特別な一日を示す「示現力」が弱いのです。いつも同じ太陽の明るさで大体似たような方位から出現するからです。もっとも古代社会では数日ズレてもさし当たった問題は無かったのでしょう。農作業では1週間ずれると嫌なようです。天水農業の開始が紀元前8000年頃、牛の家畜化に成功して耕地が増え、土器石器時代が始まるのが紀元前6000年過ぎです。暦に関しては権力者たちによって、暦は何時の時代も状況に合わせて権力者たちが調整しました。

太陽の動きから新年を探ろうとする行為はとてもオーソドックな行為で、地球上のどの地域にも見られる共通の感覚でしたが、文明以前では大体のことしかわからないのです。現代人の知識を用いて考え過ぎますと、行き過ぎた見解を招くことが多々見られます。例えばシュメル人が60進法を使ったのは星を観察したからではなく、莫大な麦の収穫を記録し再配分するためです。シュメル以前のウルク文化期では48進法が使用されています。

この流れの中で、特別な地域と時代が存在しました。

特別な地域とは夏は乾燥して晴天が続くメソポタミア方面になります。紀元前5000年〜紀元前2350年頃にかけての北緯30度から35度の地域では夏至にシリウスの朝出現象が見られました。朝出現象とはそのシーズンで最初に東の地平線に輝く状態で、明るい星でなければ確認できない特別な現象です。歳差運動で星は見かけ上移動します。この現象が見られる緯度を追いかけていきますと、現実は東方面の地平線高度に支配されてしまいます。この出現高度を2-3度としますと、紀元前5000年では北緯35度付近、紀元前2600年では北緯30度付近になります。ここは重要なポイントでして、夏至のシリウスの朝出ラインは南下しているのです。夏至のシリウスの朝出現象で名高いエジプト(ギゼ台地)では紀元前2350年頃まで観察されました。エジプト文明だけがシリウスを利用したのではなく、夏至の朝出のシリウスは後期石器時代の北メソポタミア地方から始まっています。この痕跡も残されているのですがここでは伏せます。古代エジプト人たちの暦の使用が紀元前2780年頃ですし、大ピラミッドが建設された時期も第4王朝(BC2613-BC2494年)になります。

エジプトでは時代が過去に遡るほど、夏至のシリウスの朝出現象は乖離してしまいます。例えば紀元前3300年の夏至では、シリウスが地平線から現れる頃はまだオリオン座やふたご座などが夜空に輝いています。シリウスだけが輝き、またシリウスが消滅する頃の高度は6.5度にもなります。これでは夏至の朝出の星としては使えません。下の画像のとおりです。2_3300bc_Sirus_EG

何が言いたいかといいますと、時代を遡るほど、古代エジプト人たちは夏至のシリウスなんて観察していないことです。ですから文明以前の原初の古代エジプト人たちはシリウスを観察していたわけではないことがわかります。同時にシリウス信仰をアフリカ大陸の奥地に求める行為も愚の骨頂でしょう。そしてこの夏至のシリウスの朝出現象と古代人の関わりは発端は北メソポタミアに求められるということです。この地方での詳細は伏せます。

星は1日に約1度移動します。丁度1年で1周しているわけです。ですから1年の特別な日を示す「示現力」が強いのです。しかも好都合なことに地中海からメソポタミア方面では夏至にシリウスが朝出現象として観察できた特別な地域であり自然であったと言えます。つまり北メソポタミア地域のハラフ文化やメソポタミア文明やエジプト文明はこの星の影響下に在り、しかもこれらの地方では夏至の頃は青天が続きます。これらの文明に共通して存在した信仰が「大女神と小型男性神」の組み合わせです。

 

◯「大女神と小型男性神」(中近東文明のゴールデンスタンダード)

この組み合わせは豊穣の女神でありながら、戦闘の女神であり、また天空女神でもあり、小型男性天空神を持っています。自然界の周期性に基づいた信仰であり、神話でもありました。ローマ時代には女神と天空神の淫靡なところを取り去り、キリスト教の聖母マリアと幼いキリストのパターンとなります。死して甦る神は新しい発想ではなく、キリスト以前からも存在していました。また「神の子」という言葉も、ディオニュソス神が言葉から「神の子」ですし、実際のところ線文字Bに”diwo-niso-yo”と読める単語がクノッソス(BC1380年頃最終的な火災)やギリシャ本土のピュロス(「海の民」による破壊)から出土しています。ヘレニズム時代のストア学派の文献にもこの「神の子」の表現は見られます。ディオニュソスもまた死んで蘇った神です。

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イシュタル、アフロディテ・イシス、アフロディテ(どれもルーブル美術館)

シュメル時代  イナンナ女神(金星を持つ)   ドゥムジ神(牧羊神)

アッカド時代  イシュタル女神(金星を持つ)  タンムズ神(牧羊神、自然神)

バビロニア時代 アスタルテ女神(金星を持つ)  バアル神(天候神)

エジプト文明  イシス(シリウスを持つ)    オシリス神(冥界、自然神、オリオン)

ギリシャ時代  アフロディテ女神(金星を持つ) アドニス(またはエロス)

女神たちは愛と美、そして戦闘の女神であることに気が付きます。男性神はシュメル・アッカド時代は共通で、セム系遊牧民支配の古バビロニア王国時代以降はより巨大な天空神に変容しています。シュメル・アッカド時代の神話としては「イシュタルの冥界降り」が関係しています。冥界に降りたイシュタルが地上世界に戻るために、タンムズ神と入れ替わる話で、再生神話を意味しています。自然界の周期的な変化と関係しているのです。シュメル文明崩壊後は少し変容し、バアル神はセム系遊牧民たちの主神の1柱です。もはやドゥムジやタンムズのような弱々しい神ではないです。エジプトもまたメソポタミアの場合と少し違いますが、セム族とハム族との違いであって、同質のものでありながら違いを見せます。つまり東京と大阪、デュッセルドルフとケルンのようなものです。

ここで自然界の周期性の話が出て来ました。M・エリアーデやK・ケレーニイの著作に多い「死と再生」や「豊穣と再生」、「新年の更新」といった古代世界の共通の概念です。上記のイシス女神とシリウスにはエジプトの新年、つまり夏至の朝出現象として周期性は認められますが、メソポタミアの女神たちと金星に周期性を伴うでしょうか。シュメル・アッカド文明が滅び、詳しいことはわかっていませんが、後の時代の記述で金星の周期性については記述(新バビロニア王国時代)があります。

天は赤い河のほとりにも、イシュタルが昇ると
「もうすぐ新年祭だな・・」

などとつぶやくシーンがあります。イシュタルが昇るとは金星が昇るということで、朝ということもわかります。が、より重要な事は豊穣を司るイシュタル(金星)が昇ると新年祭と考えていることです。この例では時期は春分ですが、夏至の時の儀式も当てはめられます。儀式と金星との結びつきを暗示しています。金星の会合周期は585日ですから、1年の周期性に基づいた儀式とは一致していません。けれども金星が現れている時期は数ヶ月に及びますから、金星が現れている時期ならば、儀式に流用することが出来ました。つまり何年に一度かの大祭として更に祝われたと考えられます。

実際にメソポタミアでは夏至の朝出の光景はどうでしたでしょうか。紀元前2900年のウルクでの夏至の朝出光景を天文ソフトで表現してみますと以下のようになります。

uruk400紀元前2900年7月18日(夏至)午前04時00分00秒 ウルク(クウェート)  ステラナビゲーターver.9より

シリウス  方位角116.652度 高度01.102度

シリウスが地平線から現れる前から、金星(イナンナ、イシュタル女神)が燦然と輝いていて、時間の経過とともにオリオン座が弱々しい光となります。最近では2012年の夏にこの光景が見られました。歳差運動の為、オリオン座の傾きが違います。特にシリウスとプロキオンを結ぶラインの傾きの変化が解りやすいですね。

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サラミス遺跡近郊(北キプロス)2012年8月21日。歳差運動によって、オリオン座、シリウス、プロキオンの傾きが古代世界と違っています。

というか、、、今年のシリウスの朝出で計算してみますと、金星もあり、以下のようになりました。

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今年のウルク(イラク)。北緯31.33度付近

西暦2014年8月4日午前04時37分00秒 ウルク(北緯31.33度付近)ステラナビゲーターver.9より

シリウス  方位角109.991度 高度0.769度

また北緯51度のデュッセルドルフでのシリウスの朝出は8月24日でした。

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今年のデュッセルドルフでのシリウスの朝出。

西暦2014年8月24日午前05時40分00秒 デュッセルドルフ                    シリウス  方位角117.922度 高度0.794度

惑星はエジプト文明では進歩しなかった研究です。エジプトは太陽暦でシリウスが重要な役割を示していましたが、メソポタミアでは金星がイシュタル女神として重要な役割を演じています。夏至の儀式で複雑な動きを示す金星の周期を記録した為、他の文明よりも早い時期に会合周期の発見が可能となったと考えるのが整合性を持っていると思います。メソポタミアとエジプトでは金星に対する必要性が違っていてことがわかります。

ここでオリオン座は何を示しているでしょうか。ちょっと歴史の深みに降りてみましょう。

ムル・アピンと呼ばれる星の名前を記した粘土板(大英博物館蔵)が存在し、オリオン座はシュメル語で「天の真の羊飼い」と記載されています。時には態々「天の真の羊飼い(王)」と記載されています。つまり羊飼いが羊たちを統べるように、人々を統べる王だと拡大解釈してしています。ムル・アピンには「王」の星もあります。ルーガルと呼ばれ、しし座の1等星レグルス(王:ルーガル)が該当します。ルーガルはシュメル語の王を示しています。従ってオリオンのシュメル語はそのまま訳せば良いのです。つまり「真の羊飼い」を「牧羊神」と考えれば良い訳です。牧羊神ならばシュメル時代のドゥムジ神であり、アッカド時代のタンムズ神に該当します。つまりタンムズはオリオン座を示すと私は考えています。つまり「大女神と小型男性神」の組み合わせはキリストが末端ですね。確かにムル・アピンでは直に「ドゥムジ」と記されていないことに疑問を抱くかもしれません。このムル・アピンの最古のコピーは紀元前687年のアッシリア時代(多分、バニパルさんだね)のものですから、シュメル時代から2000年近く時が経過していて、オリオン座に対して何がしかの制約が感じられます。オリオンの本来の姿が消されているのです。つまり直にオリオンを示すことを避けています。この動きは古代ギリシャでもローマでもオリオン座が表現されないことと同じだと思います。大英、ルーブル、ペルガモンの各博物館にはオリオンの彫刻もなければ、壺絵もありません。唯一、ナポリ考古学博物館にローマ時代に制作された「天球を支えるアトラス像」の天球部にオリオン座が確認できます。もし他にオリオンが存在しましたら、是非とも教えて下さい!

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「天球を支えるアトラス」矢印の先にオリオン座。(ナポリ考古学博物館)

金星とオリオン座が隣り合っている紀元前2900年の朝出光景は、まさにイシュタルの冥界降りそのものの場面であることになります。「イシュタイルの冥界降り」でイシュタルが地上世界に戻るためにタンムズを犠牲にしている場面が星空に現れています。次第に消えていくオリオンがあり、シリウスの出現があり、金星はしばらくは輝き続けます。この素晴らしい星空の顕現が神話と儀式に取り入れられたことになります。このメソポタミアの夏至の祭りがタンムズ祭です。

ところで信仰は意外と残されます。このタンムズ祭は紀元後10世紀のアラビア世界でも残されていました。そして現在のトルコでも7月をタンムズの月と呼んでいたことは先ほど記述しています。7月(古代の4月)はタンムズ祭が行われ、太陽が新しいサイクルを迎えたことを示しました。そしてエジプトのギザ台地の北緯が31度であり、メソポタミアのウルクやウルが北緯31.33度であることから、ほとんど同じ夏至のシリウスの朝出光景が見られたことになります。私はシュメル時代の夏至の朝出の光景を「天空のヒエロファニー(聖現)」とでも名づけたい気分です。ギリシャ人の坊さんが言うところの「ヒエラ オラ(大いなる時)」というものでしょう。

このタンムズ祭ですが、「都市の王がドゥムジ(タンムズ)を演じて大地母神と交わる儀式」でした。この場合、女神には神殿の高級女官が演じました。この儀式を「聖婚」といい、特にシリウスの出現を「大地が受胎」した印と受け取りました。

 

「聖婚(ヒエロス・ガモス)」(異教世界では自然と天体の運行が抜群に調和している!)

聖なる天は大地を傷つけようと恋焦がれ、
憧れは大地を結婚へと動かす。
恋している天より雨が降りそそぐ、
すると孕んだ大地は、人間たちのために
デメテルの穀物と家畜どもを養うものをはぐくむ。
またこの湿った結婚は、樹々が完きにまで成長する季節をもたらす。
これらのことどもの手助けをするのがわたし(アフロディテ)です。
アイスキュロス「ダナオスの娘たち」断片 沓掛良彦訳

夏至の聖婚は特に重要な祭りでした(日本語のWikiでのヒエロス・ガモスの説明ではあまりに不十分ですので補っておきます)。神殿には神殿娼婦が多くいました。この流れは古代ギリシャ時代でも残され、例えばギリシャのアクロコリントスには古代では最も有名なアフロディテ神殿があり、ここには多くの神殿娼婦たちが生活し、ローマ人をして「誰もがコリントスへ行けるわけではない」と言わしめた特別な場所でした。

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アクロコリントス最頂部にあるアフロディテ神殿跡。ローマ人たちはこの神殿に出かけたかったようだ。

ところで夏至の頃に受胎しますと、結果的に、つまり十月十日後に赤ん坊が生まれます。この時期は春分過ぎた頃に該当することに気が付きます。私は異教世界で長く暮らしたのでわかるのですが、春分過ぎのこの地方の景色はそれはそれは美しい光景が拡がっています。アネモネ、マーガレット、桜の花に似たアーモンド(ピスタチオ)などが咲き誇っています。自然だけでなく、同時に夏至の頃に身籠った子供も生まれるということです。

【左】アネモネ。アルカディア地方。2011年3月27日撮影。 【中央】アーモンドの花(桜より少し派手)。アルカディ地方。同28日撮影。 【右】誰も花見してません!ひと山ピスタチオの花。ウスパルタ地方(トルコ)2006年3月30日撮影。

【左】アネモネ。アルカディア地方。2011年3月27日撮影。 【中央】アーモンドの花(桜より少し派手)。アルカディア地方。同28日撮影。 【右】誰も花見してません!一帯がピスタチオの花。ウスパルタ地方(トルコ)2006年3月30日撮影。

そしてこの時期は砂漠が緑で覆われる特別な時期です。私は緑で覆われた大シリア砂漠にあるパルミラ遺跡を訪れたことがあります。

1997年4月2日の撮影。砂漠が緑に溢れる特別な時期です。

1997年4月2日のパルミラ遺跡(シリア)。砂漠が緑に溢れる特別な時期です。

シリアでは春分過ぎから4月の初めの緑に覆われた時期に生まれる子供は特に家族から愛される、と教えてもらえましたし、古代の聖人が生まれるのも大体この時期です。

このように異教世界では春分と同時に春がドッと押し寄せてきます。春分という太陽の変わり目に対して自然が再生するという時期にあたり、メソポタミア方面では春分(の頃)に新年祭であるアキトゥ祭が行われ、儀式の終盤では夏至の聖婚と同じような儀式が執り行われました。そこには「死と再生」という共通の概念があります。旧年が死に、新年が始まるのに相応しく、自然界も再生している訳です。

このように古代の異教世界では夏至、春分は特に自然と天体と人々の儀式が見事に調和した特別な時代でした(こんなことを書くのは私ならではでしょう)。しかも紀元前2800年以降のウルクでは、春分頃の夕方にオリオン座が西の地平線に沈んでいきます。夏至と春分にオリオン座が重要な役割を示しているのですが、これも今回は伏せます。

ところで歳差運動があります。エジプトでは紀元前2350年辺りを境に夏至のシリウスの朝出現象は観察できなくなります。この事態に驚き、恐れたのが第五王朝最後のウナス王です。先祖から続いた夏至のシリウスの朝出現象が観察できなくなってしまいました。祖先の伝統を受け継ぐことができなくなった弁明としてピラミッドテキストを用意した気がします。本文は祈祷文であり若干ですが履歴書みたいなものでもあり、シリウスの朝出現象が見られなくなったことに対して、自分には罪はないことを示す弁明書のようなものに私には見えてきます。王の息子ペピ1世はメンフィス(サッカラー)から南方のアビュドスに遷都します。そして重厚なオシレイオンと呼ばれるオシリス神殿を建造します。この地はサッカラーよりもずっと南方にある為、夏至のシリウスの朝出現象が目撃できました。地形的にもナイル川東岸にある山地とも重ならないで、地平線を確保出来ました。アビュドス出土の立派なオシリス像やイシス像はルーブル美術館に所蔵されています。

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ホルス、オシリス、イシス像。アビュドス出土(ルーブル武術間)

一方メソポタミア方面では、恐らく(文明崩壊の為詳しく書けないのが残念)タンムズ祭の儀式の日数を増やして対応したと考えられます。儀式を1日延ばせば、大体80余年、シリウスの後退現象を補うことが可能です(歳差運動による後退は黄道上で100年で約50分角ですから)。古代の儀式が何日もかかるのは普通ですね。ですがシュメル・アッカド文明は紀元前2200年過ぎからセム系遊牧民の侵入を受け、紀元前2004年にシュメル文明は滅びます(年代を低年代説として採用すると紀元前1940年となります)。その後のセム系遊牧民による古バビロニア文明ではアスタルテ女神とバアルが主神ですから、イシュタル女神とタンムズ神の組み合わせとは様相が違ってきます。恐らくですが、ミタンニやヒッタイト文明の主神(天空神テシュプや天候神ハダド)と比べると見劣りしてしまうためでしょう。シュメル時代を引き継いだアッカド人はセム系ですが農耕民族です。シュメル・アッカド文明崩壊後のセム系遊牧民とは明らかに違うことが伺えます。幸いにも夏至のタンムズ祭は残されました。夏至のシリウスの朝出現象は歳差運動によって見えなくなっても、オリオン座は東の地平線上に見えていました(この痕跡の説明は重要なので伏せます。私はタンムズはオリオン座だと考えていますので、タンムズ祭が残されるのは当然です)。この歳差運動によって夏至のオリオン座の出現はローマ時代まで信仰として残されています。オリオン座の主要7星の内、6星はアラビア語に堕ちましたが、最初に見えるベラトリックス星はラテン語です。最初に見えるオリオン座の星というよりも、歳差運動によって後退していく中で最後まで頑張って見え続けたオリオン座の星といった感じです。意味的には女戦士、またの名はアマゾンスターです。

シュメル文明の痕跡はクレタ島のミノア文明に残され、クレタ島では紀元前1700年頃にヒクソス支配下であったエジプトのイシス信仰が流入し、ミノア文明崩壊後はギリシャのエレウシス遺跡にイシス信仰の跡が伺え、クノッソス宮殿での新年祭はトルコやギリシャの一部都市にその痕跡が残されていますが、長くなるので割愛します。

 

◯異教世界との決別

メソポタミアで中アッシリア帝国(BC1365-BC934年)が栄えた頃、人口が増えたのか、パレスティナ方面にはいくつかの国が乱立するようになりました。旧約聖書が書かれた頃から、時代が降るほど色々とオカシクナリマシタ。

ギリシャ(ミュケナイ)人がクレタ島のミノア文明を滅ぼした時、大女神と小型天空神に触れました。ギリシャ人は印欧語族で天空神ゼウスを持っていました。ですからミノア(当時はケフティウ)人の天空神は排除してしまいます。彼らが勢いを駆って、クレタ島からキプロス島を占領し、更に東方世界を伺うようになります。するとキプロス島もミノア人たちの重要な交易都市でしたから、クレタ島でも大女神と小型天空神のパターンを見出します。 更にシリア方面にはアスタルテ女神とバアル神の組み合わせがあり、ギリシャ人たちはバアルを主人(アドン)と呼び、アフロディテ女神とアドニスの組み合わせが誕生します。時に紀元前15世紀の終わり頃になります。が、いろいろ変遷しました。

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ミノア文明宮殿時代 (A.Evans “The Palace of King Minos”より)

古代ギリシャでは4月(古代の10月)をアフロディテの月と呼びました。アドニス祭も春に行うように変遷しました。ギリシャでは春分の頃に咲き誇る赤いアネモネの花は特に印象づけたようです。アドニスはアフロディテとペルセフォネの争奪によって、一年を3分する神話が(冥界にいるのか地上界に居るのか女神が争い、更にアドニス自身の選択)があります。タンムズ祭はメソポタミア方面で残されました。ギリシャ方面ではアドニス祭を本来の夏至に持っていくのは都合が悪かったようです。例えばアテネでは夏至が新年で、パンアテナイア祭という盛大な新年祭があります(パルテノン神殿も夏至の日の出方位角に建築方位が合わされています)。同じ時期に儀式がバッティングしてしまいます。セム語族と印欧語族のギリシャ人たちとの間では、代々伝わってきた儀式が違っているということですね。

4月がアフロディテの月であることは現代でもAprilですから、続いていますね。アフロディテ女神の影響は甚だ強力で、現在でもイタリア人のスケベさや、ギリシャ人による夫婦間性交回数世界一などが挙げられることでしょう。せっかくアフロディテ女神が金星を伴っても、古代ギリシャ人には美しさの対象でしかありませんでした。有名な女流詩人サッフォー(BC600年頃)が「夕づつ」の詩や「アフロディテ讃歌」を歌い上げていても、金星の美しさや贔屓したい少女に対する恋愛を歌っているにすぎませんし、金星に基いた儀式も存在しません。

この流れの中でローマでは聖婚を春に位置づけてしまい、いろいろとおかしな事態を招いていて、それらは中世ヨーロッパのキリスト教を経て現代のキリスト教でも続いていますね。春分過ぎに降誕して、冬至過ぎに生まれるのは私には寒すぎます。春は緑に溢れ、自然の回復を思い出します。それは緑の再生。人間に言い換えれば子供が生まれることです。子供を仕込むこと(降誕)ではなく産むことです。ですからその仕込みは太陽の力に満ちた夏至ということになり、メソポタミアやエジプトで見られた夏至の聖婚の舞台が元の姿であるのです。古代の秋の儀式に求めても、それは秘儀に属することなので無駄な作業です。秋の作物、冬に向けての自然の老衰を人間に例えれば、人としての成熟後の体力の衰えしか無いです。私はどうしても寓意的に考える習慣があります。テスモポリア祭のように女だけの儀式が秋に行われ、エレウシスの儀式も秋に行われました。どちらもその儀式の内容がわからない為、秘儀として扱われています。ヘロドトスは神を恐れて口を閉ざし、アリストファネスの舞台でも内容については紹介していません。まあ秋の秘儀は古代エジプトに見られますね。カ・ヘル・カの月の最終日にオシリスとイシスの儀式が行われていました。これが紀元前1700年頃クレタ島にもたらされ、更に紀元前15世紀にエレウシスに辿り着いています。

考古学者や歴史学者たちが気が付かない多くの事柄は、星が導いてくれます。私はタンムズがオリオンであると指摘しました。オリオンが天空神であったことはギリシャ神話でのオリオンの素行から明らかなことです。つまり女好きという点です。そしてゼウスも天候神ですから、浮気をします。これはギリシャ人が考える天空(天候)神の特徴です。見えない精子の雨を降らせ他人の畑を潤してしまいます。

ヘレニズムギリシャ世界がローマ世界に飲み込まれた後、紀元後4世紀はローマ世界がキリスト教化する時代でした。古代ギリシャやローマのエッセンスは394年のテオドシウス帝の勅令(異教を禁じる)によって消されてしまいました。オリンピックは中止、ローマのベスタの火は消され、神殿は破壊されました(異教神殿破壊令)。以前からキリスト教徒たちはギリシャの神々の彫刻を破壊したり傷つける常習犯でしたし、他にもトルコのペルガモン遺跡にある有名なゼウス祭壇は彼らによって「悪魔の祭壇」として忌み嫌われました。その悪魔の祭壇が、現在ではキリスト教国のペルガモン博物館にあるわけですから皮肉なものです。また初期キリスト教徒たちが最も攻撃したのは秘儀を礼賛する人々でした。彼らにとって死んでよみがえるのはキリストだけでしたし、もともとメソポタミア方面の「大女神と小型天候神」のイメージの末端にありながら、異教的な聖婚にまつわる要素を切り崩し変更したことがわかります。キリスト教化したローマは410年に有名な略奪があり、既にこの時はもうローマは皇帝が住む帝都ではありませんでした。ラベンナやミラノに遷都しています。そして480年には(キリスト教)西ローマ帝国も滅びます。呆気無いものでした。

異教世界の春分過ぎの自然は非常に美しいのですが、北緯42度に位置するローマでは季節の訪れは少し遅れてやってきます(コンスタンチノーポリやサロニカが北緯41度付近です)。ローマでの年末祭も影響したでしょうが、季節分を加味したのか、紀元前45年頃のカエサルによる太陽暦の導入によって、新年は冬至から10日遅れてセットしました。しかも図々しく傲慢なことに7月を自分の家柄(ユリイ家)に因んで名前をつけました。太陽が一番力強く輝く素晴らしい月を私物化しました。ユリイ家はトロイ王家のアイネイアスを祖先に持ち、彼の両親であるアフロディテ女神とアンキセスまで遡るのですが、全く考えていなかったようですね。アウグストゥスも8月を自らの名前にしてしまいました。だから8番目の月が10月になってしまいました。

言い換えれば、暦まで征服したことになります。ローマの自然に合わせてできた新しい暦がやがて世界暦になってしまいました。特にアルプスを超えた北の地方での復活祭を見ますと、春分過ぎの満月の次の日曜日が復活祭となります。またドイツでは5月祭もあるし、更に北欧では自然の回復が遅いので緑で溢れるのは夏至祭となっています。これまたこちらの自然に合わせてあるなあ、、、とつくづく思うのです。

但し、日本語Wikiの夏至ページの「風習」欄には、「北半球では、性欲をかきたてる日とされており、・・・(以下略)」とありますが、アルプス以北の夏至祭と比べますと、地中海世界の夏至の「聖婚」とは自然の様相が違っています。

何故そのように言えるかといいますと、私のアテネ滞在3年を過ぎた頃のことです。暑い時期が始まり、夏至過ぎの暑い日の夕方、とても形容しがたい妖しい空気に包まれるのです。体中にその乾燥した空気がまとわりつき怪しい感覚に支配されます。高温で乾燥した地域独特のものでアラビアンナイトの世界にも通じる感覚です。ドイツではこのような感覚は起こらないと思います。女流詩人サッフォーの友人であったアルカイオスの抒情詩に以下の作品があります。

肺の臓を酒浸しにしろ、例の星が戻ってくるから。
やり切れん季節だ、何もかも炎熱のため渇き切るのだ。
して、葉ぞへからは、美しい蝉の声がひびいて来る、その翅もとより
嚠喨とした歌を ひつきりなしに注ぎ出して——、いつでも夏が
燃え立つやうに [大地へ隈なく漲りわたり]・・・・・・
向日葵の花が咲く、今は女どもが一番にいやらしくて、
男らは痩せ細る時だ、頭も膝も、天狼星が 焦がすもので。
アルカイオス(P.L.F.Alkaios347) 「ギリシャ叙情詩選」 呉茂一訳

普段からこんなことを考えていますので、私にとっての新年は夏至なんですね。至点分点を無視した現行のカレンダーを心から受け入れられないのです。また文面から私が宗教関係者ではないことはおわかりいただけたと思います。所属する団体は日本写真家協会ですし、他にはアテネにあるブレーゲンライブラリーの入館カードくらいです。星の語り手としての私の立場ですが、明治の野尻抱影、戦後の原恵、草下英明に続かなければならない立場に居るようです。異教世界に住んだこともなく、古代ギリシャ語も読めない連中が星座物語を書いても、同工異曲のものでしかないのだけれど、日本の文化ではその程度で充分のようです。私は先に進みすぎてしまい、誰も着いてこれません。

話が北半球高緯度地域の夏至の日照時間のように長くなりました。ここまで読んでいただいた方々に対して深く「ありがとうございます」とお礼申し上げます。夏至の太陽出現方位に触れ、多くは発表済みの原稿内容(主に2013年の星ナビ特集「夜空から古代の神話世界を解く」)とドイツ滞在で感じた所感を追加したリメイク版になります。見事なくらい日本人には関係ない世界に私は居ます。私はこれらを土台にして、星空を利用して明らかになる様々な古代世界の深淵、つまり今まで説明できなかった数々の事柄を解き明かしてしまいました。7000年に及ぶ時間と地中海と中東世界の空間を、ある共通項でまとめました。この地域の諸文明の大統一論に相当します。つまりもう手元にあるのです。古代の星空がもたらす1例としてピラミッドテキスト(PT)に関わる話だけサービスしておきました。実はPT本文の内容だけでは話にならないところがあります。またPTについてはこれだけではなく、更に重要な箇所は伏せています。これらを発表できれば古代の星空に通じたドイツの巨人、故ノイゲバウアも超えられると思っています。

 

 

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写真家(日本写真家協会会員、日本舞台写真家協会会員) 私は長年、地中海世界で星空を眺め、星空を撮影してきました。 暑く乾燥した世界の天と地の間で、オリオン座を意味する古代の紋章を探し続けていました。訪れた遺跡は260遺跡を超え、様々な星空を語ることが出来ます。月々の星空を紹介しながら古代へとタイムスリップの旅に誘うページとご理解ください。著書に単行本「ギリシャ星座周遊記」(地人書簡)、写真集「星空」(日本カメラ社)など。

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カテゴリー: ドイツの暮らし

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