ドイツの生い立ち (下)

フリードリッヒ2世が即位した1.740年に神聖ローマ帝国(オーストリア)皇帝カール6世が亡くなり、オーストリア継承戦争(1.740~1.748年)と、7年戦争(1.756~1.763年)がおきました。

オーストリア継承戦争は、カール6世の後を継いで長女のマリア・テレジアが即位したことに異議を唱える国々が現れたのに乗じて、フリードリッヒ2世が、父の残した強力な軍隊をひきいて資源に富んだオーストリアのシレジアに攻めこんだために始まった戦争です。イギリスとロシアがオーストリアに味方しましたが、この戦争でシレジアはプロシア領となりました。

7年戦争では、フランスとロシアがオーストリアに味方しましたが、後にロシアがプロシア側についたためにプロシアが勝ち、プロシアを中心としてドイツが統一される糸口が作られました。

ベルリンの郊外のポツダムの丘の上に、パリのベルサイユ宮殿に憧れたフリードリッヒ大王が1.745~1.747年に建てたのがサンスーシ(無憂)宮です。サンスーシは、憂い(心配)ごとがないことを示すフランス語です。ロココ式の建物と美しい庭園は、18世紀のヨーロッパ建築を代表する1つです。

1.789年におきたフランス革命とそれに続くナポレオン戦争では、オーストリアは何度もナポレオン1世(1.769~1.821年)軍に負け、その勢いが弱まりました。1.806年にはロシアと同盟したプロシアもナポレオン軍に破れ、ナポレオンはベルリンに入城しました。この年にナポレオンの命令でオーストリアにあった神聖ローマ帝国が消滅し、オーストリア帝国になりました。

ナポレオン軍はその後1.812年にロシア遠征に失敗し、1.813年の諸国民戦争でイギリス、プロシア、オーストリア、スウェーデン、ロシア連合軍とライプツィヒで戦って破れ、連合軍は1.814年にパリに入城しました。

ウィーン会議(1.814~1.815年)が開かれて、ナポレオンはエルバ島に流され、約40の独立国からなるドイツ連邦が作られました。この時代のドイツはいくつもの独立国から成っていたために、政治的には困難を極めていましたが、その代わりに文化の花が開き、ヨハン・W・ゲーテ(1.749~1.832)、ヨハン・C・シラー(1.759~1.805年)、イマニュエル・カント(1.724~1.804年)、ゴットフリード・W・ライプニッツ(1.646~1.716年)、ヨハン・S・バッハ(1.685~1.750年)、ルードビッヒ・ベートーベン(1.770~1.827年)などが活躍しました。

ドイツ連邦が作られた1.815年に生まれ、鉄血宰相と呼ばれたオットー・F・ビスマルク(1.815~1.898年)は、プロシア首相として軍備を増強し、プロシア・オーストリア戦争(1.866年)およびプロシア・フランス戦争(1.870/71)に勝ってプロシアを中心にするドイツ帝国を成立させ、プロシア王国が幕を閉じたことになります。

以後ビスマルクは、1.890年にヴィルヘルム2世に罷免されるまで三帝同盟(フランスの孤立を狙うドイツ、オーストリア、ロシア)、ベルリン会議(ロシアの孤立を狙うドイツ、オーストリア、イギリス、ロシア)、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)を通じて平和外交の維持に努めました。三国同盟は、そのまま第一次世界大戦の三国同盟となりました。

ドイツ帝国3代目で最後の皇帝であるヴィルヘルム2世は、1.890年にビスマルクを罷免し、それまでとは逆の世界侵略政策を展開して、それを新航路政策とよびました。ベルリンからトルコの首都ビザンティウム(イスタンブール)を経てアラビアのバクダート(イラク)へいたるバクダート鉄道を計画し、これを3B政策とよびました。

これに対してイギリスはカルカッタ(インド)、カイロ(エジプト)、ケープタウン(南アフリカ共和国)を結ぶ同様な計画を発表してこれを3C政策とよびました。両者とも結局は完成せず、両政策は第一次世界大戦の遠因となりました。

第一次世界大戦は、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と、これに対する三国協商(イギリス、フランス、ロシア)との対立がきっかけとなっておきた大戦ですが、その直接のきっかけは、1.914年6月におきたサラエボ事件です。オーストリア皇太子夫妻が自国領のボスニア州の州都サラエボでセルビア(ユーゴスラビア)の反オーストリア青年によって暗殺されました。

三国同盟側にはトルコ、ブルガリアなどが、三国協商側には三国同盟を脱退したイタリア、ベルギー、日本、アメリカ、中国などが加わりました。日本は、1.902年に締結した日英同盟にもとづいて参戦し、ドイツの中国での根拠地である青島(チンタオ)や太平洋のドイツ領諸島を占領しました。

ドイツは中立国のベルギーを通ってフランスに侵入したり、ロシア軍を破ったりしましたが、無制限潜水艦戦を展開したために、1.917年にアメリカなどが三国協商側に加わりました。同じ年の11月には革命がおきて帝政が崩壊し、ロシアが離脱しました。

ドイツ北部のキール(Kiel)の軍港では、ドイツの水兵たちが即時講和を求めて蜂起し、騒ぎがドイツ全土に広がり、1.918年11月にドイツが降伏することによって戦争が終結しました。この第一次世界大戦をきっかけとして、ロシア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコの4大帝国が崩壊し、アメリカの発言権が著しく強くなりました。

ドイツ帝国に代わって成立したワイマール共和国(1.918~1.933年)では、アドルフ・ヒットラー(1.889~1.945年)が権力を握り、パウル・ヒンデンブルグ大統領(1.847~1.934年)死後の1.934年に総統となって、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国につぐ第3帝国(1.934~1.945年)を作りました。

その頃ロシアでは、ロシア帝国に代わって1.922年に成立したソビエト連邦では1.925年にヨシフ・スターリン(1.879~1.953年)が権力を握り、イタリアでは1.935年のエチオピアへの侵入によってベルト・ムッソリーニ(1.883~1.945年)の勢いが強まりました。

独ソ不可侵条約が結ばれた1.939年の9月にドイツがポーランドに侵入し、イギリスとフランスがドイツに宣戦して第二次世界大戦が(1.939~1.945年)始まりました。ソ連もポーランドに侵入し、ドイツとソ連がポーランドを分割しました。1.940年4月にはドイツはデンマーク、ノルウェーに侵入しました。

1.941年には独ソ不可侵条約(1.939年)に反して独ソが開戦し、10月~12月にはドイツがモスクワを攻撃して失敗しました。12月には日本がアメリカの真珠湾を攻撃して日本とアメリカが開戦し、第二次世界大戦は太平洋地域にまで拡大しました。

引用・参考文献: ニュートン、Wikipedia他

EK

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カテゴリー: ドイツ、ドイツ人について
ドイツの生い立ち (下)」への2件のコメント
  1. netdeduessel より:

    コメントありがとうございます。
    アナログでは主にニュートン、デジタルでは主にWikipedia からのミックスとなります。

  2. kiki より:

    大変に興味深い情報ではあるが、参考・引用文献は?

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