ドイツの生い立ち (上)

紀元前8世紀頃に、ヨーロッパ中部および西部系のケルト人がドイツに住みつきました。ケルト人は他の民族が当時まだ知らなかった鉄の精錬法を知っていたことから、その鉄で作った鋭い刀や槍を使って他の民族を征服しました。ローマ人はケルト人をガリア人、そしてケルト人が住んだ地域をケルトと呼びました。

紀元前3世紀頃に、北ヨーロッパに住んで部族国家を作っていたゲルマン人が南下して、ケルト人を圧迫しだし、紀元前1世紀の後半にはラテン系イタリアのローマが南からドイツに侵入しました。

ローマの初代皇帝、カエサル(ジュリアス・シーザー 紀元前100年~44年頃)は養子のアウグストゥス(オクタビアヌス 紀元前27年~紀元後14年)を、紀元前9年頃にドイツに進軍させましたが、ドイツ北西のトイトブルグでゲルマン軍と戦って破れ、それ以降ゲルマンの南下が加速しました。その頃のゲルマン人はローマに侵入し、ローマの傭兵や農業従事者となりました。

486年頃には、ゲルマンの1部族であるフランク族がかってのガリアの地を支配するようになり、それがフランク王国の始まりとなりました。フランク王国はその後約500年続き、現在のドイツ、フランス、イタリアに相当する地域を支配しました。

フランク王国の名君はカール(シャルマーニュ)1世(大帝、在位768年~814年)ですが、彼はその頃勢いを強めていたイスラム教のピレネー山脈越えの進入を防ぎました。そのことに感謝したローマ教帝(法王)レオ3世は800年、カール大帝にローマ皇帝の冠を授け、以後彼はローマ皇帝を名のるようになりました。

843年、カール大帝の死後、フランク王国は東フランク、西フランク、中部フランクの三つに分裂しました。東フランクと西フランクはほぼ現在のドイツとフランス、中部フランクはその中間地域に相当します。870年に中部フランクの北の部分を東フランクと西フランクが分割・併合して、現在のほぼ南イタリアに相当する地域を中間地域とし、現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が作られました。

ドイツが強国となり始めたのは連邦国の1つであるザクセン(東ドイツ南部)朝のオットー1世(大帝、在位936年~973年)の時代で、彼は東ヨーロッパから侵入したハンガリー軍を撃退したりしました。962年にローマ教帝ヨハネス12世はオットー1世をローマによんで、改めてローマ皇帝の冠を授けました。こうして神聖ローマ帝国(962年~1.806年)がスタートしました。

ですが神聖ローマ帝国の勢いが強かったのは最初の2世紀だけで、その後は連邦国家の分裂によって単なる名目上だけの存在となりました。1.440年頃からは、オーストリアのハプスブルグ家が歴代の神聖ローマ帝国の皇帝となりました。その頃のドイツは、現在のドイツとその南東にあるオーストリアを含む地域を指しています。

13~16世紀には北ヨーロッパの商業権を支配するハンザ同盟という名の都市同盟が栄えました。ハンブルグやリューベックなどの北海やバルト海に面した北ドイツの都市です。その最盛期の14世紀後半には約100の都市が参加して、共同で海上交通の安全や利益を確保しました。

こうして生じた経済繁栄の利用を考えたのが、大きな宮殿に住んで贅沢な暮らしをまかなう必要のあったローマ教帝です。教帝が考えた集金方法の1つは、免罪符の販売でした。免罪符を売る僧侶たちは、村の広場に賽銭箱を置き、”この中でお金がチャリンと音を立てるたびにあなたの罪は1つずつ消える” といって道行く人たちに献金を呼びかけました。

このあまりにひどいやり方に憤慨して立ち上がったのが、中部ドイツ、アイスレーベン生まれの神学者、マルチン・ルター(1.483~1.546年)です。”人間を救えるのは神だけである。免罪符を買えば罪が消えるなどという教帝はおのれの罪を悟るべきだ” といい、1.517年10月31日に教会の門に95ヶ条の意見をまとめて貼り出しました。教帝はマルチン・ルターを破門しました。

1.555年には新教徒(ルター派、プロテスタント)の反抗に譲歩した教帝カール5世がアウグスブルグでの会議で都市や諸侯に新教と旧教(カソリック)を選ぶ自由を認めました。これがアウグスブルグの宗教和議です。

宗教改革は、旧教徒と新教徒との間の戦争である30年戦争(1.618~1.648年)をも引き起こし、オーストリア、スペインなどが旧教徒側を、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、スウェーデンなどが新教徒側を助けました。

マルチン・ルターの功績は宗教改革だけではなく、旧約聖書をヘブライ語に、新約聖書をギリシャ語の原典からドイツ語に翻訳し、当時ドイツの各地で多くの市民が読めなかった聖書を市民に近づけました。その翻訳聖書の印刷に役立ったのが、ヨハネス・グーテンベルグの発明した印刷機です。

ドイツ+オーストリアから現在のドイツに移り変わるプロシア(プロセイン)王国(1.701~1.871年)がスタートしたのが1.701年です。プロシア王国の第2代国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(在位1.713~1.740年)は、兵隊王と呼ばれた王で、いつも軍服を着て過ごし、強い軍隊を養成しました。その子供が大王と呼ばれるフリードリッヒ2世(在位1.740~1.786年)です。

EK

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